アリビナ宇宙科学研究所

アリビナ宇宙科学研究所の歴史

創立まで

1962年11月24日以前

アリビナ・ルキーニシュナ・エイゼンシュテイナ博士はソビエト連邦の宇宙開発関連組織で、リワ・クリショワとニコライ・ジェコフスキーらと同じチームに所属する物理学者でした。アリビナ・エイゼンシュテイナ博士の専門は宇宙物理学(宇宙論と天体物理学)でしたが、アリビナ・エイゼンシュテイナ博士は航空宇宙工学にも精通していました。そのため彼等はソ連の宇宙開発事業に加わり、世界の宇宙開発競争に参加していました。ソ連が満州を占領する以前に、エイゼンシュテイナ博士は満州を訪れ、満州にいた一人の日本人男性と知り合い子どもを設けていましたが、ソ連の対日参戦後に、エイゼンシュテイナ博士は日本の家族と生き別れとなり、ソ連で宇宙物理学・航空宇宙工学の研究員として変わらない日々を送っていました。

1956年1月にスプートニク計画とゼニットがソ連で承認されました。セルゲイ・コロリョフの指揮する開発チームがスプートニク1号、世界初の人工衛星の外軌道周回を達成しました。エイゼンシュテイナ博士等の開発チームも彼等の技術を研究し、それに追随しましたが、思うように成果を上げることはできませんでした。エイゼンシュテイナ博士はスプートニク2号搭乗の一次選考に通ったソ連の宇宙犬アリビナを同名の友としていました。しかし宇宙犬アリビナも研究者アリビナも祖国に功績を残すことができませんでした。

1962年にアリビナ・エイゼンシュテイナ、リワ・クリショワ、ニコライ・ジェコフスキー等は、成果を上げられないことを理由に、ソ連の宇宙開発関連事業から手を引きました。これはほとんど解雇に近いものでした。彼等はどこへ向かうべきかを考えましたが、直ぐには答えが出ませんでした。そんな中、ソ連の中小研究機関に勤めていたエイゼンシュテイナ博士達の友人であるセルゲイ・エラストヴィチ・キリーロフと、アリビナの教え子であったアルテミー・スヴャトスラヴォヴィチ・パステルナーク等から、共同で新規事業を打ち上げないかとの誘いがかかりました。この時、セルゲイ・キリーロフ等はエイゼンシュテイナ博士を代表とする約束を建てたとされています。エイゼンシュテイナ博士はこれに賛成し、1962年11月24日、新規研究機関Альбина Институт Космических Наук «БЕЛКОСМОС»(アリビナ宇宙科学研究所「ベルコスモス」)を建てました。これが初期のアリビナ宇宙科学研究所(AIẞU)です。

しかしエイゼンシュテイナ博士以外のほとんどの研究員はこの研究機関に加わるのを拒みました。エイゼンシュテイナ博士はこれを黎明として、リワ・クリショワとニコライ・ジェコフスキーと別の道を行くことを決意しました。後にこの2名は外部協力者としてベルコスモスの研究開発に力を貸しました。

再建前の当研究所

1962年11月24日から1991年12月14日

初期AIẞU

ベルコスモスには宇宙物理学の研究室と航空宇宙工学の研究室の2つを置き、初期の職員は、宇宙物理学研究室はアリビナ・エイゼンシュテイナ、セルゲイ・キリーロフ、イワン・グラツキーの3人、航空宇宙工学研究室はアルテミー・パステルナーク、アンナ・リトヴィンツェヴァの2人の、5人だけでした。リワ・クリショワ、ニコライ・ジェコフスキーは外部の協力者としてアリビナ・エイゼンシュテイナの計画に加わり、この新しい研究機関には加わりませんでした。

エイゼンシュテイナ博士はベルコスモスと共に、再びソ連の宇宙開発事業、世界の宇宙開発競争に挑みました。しかしこの時代のソ連の宇宙開発事業は、30もの開発プロジェクトを抱え込み、各設計局の主任が互いに争っていたために、激しい内部競争を引き起こしていました。1964年には、ニキータ・フルシチョフの失脚を受けて、セルゲイ・コロリョフは有人飛行計画の完全な指揮権を与えられました。ベルコスモスの当初の目標は、同一にして、有人宇宙飛行と月面探査でした。そのためベルコスモスは、セルゲイ・コロリョフの設計局に追随する形でこの競争に加わりました。

ベルコスモスは設立後、徐々に職員を増やしていきました。その中でコスモス衛星の打ち上げに参加しましたが、失敗に終わり、やはり成果は上げられませんでした。1966年になると、セルゲイ・コロリョフが死去し、ソ連の宇宙開発競争は混乱に包まれました。そんな中で、ベルコスモスがソ連の宇宙開発とは無関係に設置された研究所であったために、ソ連政府より技術を盗んだとされ、エイゼンシュテイナ博士は捕らえられるところでした。更に、エイゼンシュテイナ博士が日本人と子を設けていたことと、ロシア正教会の信徒であったことも捕らえられる要因となりました。これを受けてエイゼンシュテイナ博士はドイツへ逃亡しました。この時代のベルコスモスの代表はアリビナ・エイゼンシュテイナでしたが、指揮はアルテミー・パステルナークが執っていました。この事件があり、ベルコスモスは活動停止を余儀なくされました。

メオロ仮説と新たな当研究所

エイゼンシュテイナ博士は自身の嫌疑が晴れるまで、ドイツの航空宇宙工学者ブルクハルト・ドゥーデンヘッファーの許にいました。ドゥーデンヘッファーはエイゼンシュテイナ博士がかつて所属していた設計局の元職員でした。エイゼンシュテイナ博士は、解雇後祖国のドイツに帰国したドゥーデンヘッファーに色々な話をしたとされています。その中で、ドゥーデンヘッファーはベルコスモスの活動に非常に興味を示し、後に13番目の職員となりました。

エイゼンシュテイナ博士は嫌疑が晴れたころ、ソ連に戻ると、リワ・クリショワ、ニコライ・ジェコフスキー等他数名の科学者と秘密裏に会いました。そこで地球の起源や素粒子世界に関する議論を行い、1946年にレジナルド・アルドワース・デイリーが提唱した「原始地球への天体衝突」に注目しました。この時に会談の席にいた脳科学者のルスラン・アズレートヴィチ・チェルヌィフによってメオロ仮説(Меволло Гипотеза)が話されました。メオロという言葉の語義は「知識」や「恩恵」であるとされ、ルスラン・チェルヌィフの造語であると考えられています。メオロ仮説は原始地球に天体が衝突した際に、その天体にあった様々な「恵み」が地球にもたらされたとする説でした。この仮説は彼等の中で熱心に議論されたとされます。この後にアリビナ・エイゼンシュテイナはメオロ仮説をベルコスモスに持ち帰ると、ベルコスモスに新規に神秘科学研究室を設置し、新規に参入したルスラン・チェルヌィフを神秘科学研究室の室長としました。この頃からエイゼンシュテイナ博士は、スピリチュアルといわれるような事柄の研究に熱心になっていき、ベルコスモスもそのように変わっていきました。ソ連の宇宙開発の技術を盗んだとされたことなどもあり、ベルコスモスは宇宙開発競争に戻れなくなっていました。この一般にスピリチュアルといわれるような事柄は、ベルコスモスではまとめて「神秘科学(Мистическая Наука)」と呼ばれました。これはメオロ仮説によってアリビナ・エイゼンシュテイナが神を見て、その神を知り近づく研究のためにメオロ(神秘)を追ったとされます。

さらに、ルスラン・チェルヌィフはエイゼンシュテイナ博士に人間の共感覚性の話をし、共感覚性を用いた兵器の開発をすればソ連内での地位が確立できるのではないかと話したとされています。この話を受けて、自身の宇宙開発分野の研究に限界を感じていたエイゼンシュテイナ博士はベルコスモスの目的を変更しました。エイゼンシュテイナ博士は神秘科学研究室の目的を、メオロ仮説の立証と能力開発、そして共感覚性を利用した兵器の開発と定めました。これによって、ベルコスモスは新しい研究機関として生まれ変わりました。

晩年と解散

ベルコスモスの目的を変更した後も、コスモス衛星の打ち上げを中心に行っていましたが、ことごとく失敗に終わり、これといって成果はありませんでした。その状態が長く続き、1978年にアリビナ・エイゼンシュテイナは病に倒れ、ベルコスモスの今後についてアルテミー・パステルナーク等と協議しました。エイゼンシュテイナ博士は闘病生活の後に回復しましたが、1981年に代表の座を退き、アルテミー・パステルナークを新所長に任命しました。アルテミー・パステルナークは、目的の変わり果てたベルコスモスを見て、宇宙開発事業の継続は困難であると判断し、宇宙物理学研究室と航空宇宙工学研究室を併合し、宇宙科学研究室を新設しました。これに加えて、これ以前に参入したドイツ人やこの後に参入したイギリス人などに合わせて、研究所の名称をАльбина Институт Космических Наук «БЕЛКОСМОС»からAl’bina Institute of Space and Astronautical Science (AISAS)の英語名称に改称しました。

晩年、エイゼンシュテイナ博士はソ連を離れて日本の家族の許を訪れました。アリビナ・エイゼンシュテイナの夫は既に永眠しており、再開はできなかったと伝えられています。アリビナ・エイゼンシュテイナは娘とその家族と日本国内旅行をし、熱海の水葉亭に宿泊しました。アリビナ・エイゼンシュテイナは晩年に神秘科学研究室の研究を基に霊体のプラズマ仮説を提唱していたとされています。アリビナ・エイゼンシュテイナは1991年1月28日に日本の北海道で永眠しました。後にこのことを知ったアルテミー・パステルナークは、ソ連の崩壊もあり、1991年12月14日にAISASを解散にしたと、この時のAISAS職員であった、現在の当研究所の職員であるドミトリー・トカチェンコの祖父によって伝えられています。

再建

2014年5月11日以降

研究所の再建

2011年の日本では、アリビナ・エイゼンシュテイナの娘の娘の娘、即ち曾孫にあたる田上彩夏は、研究団体シズクに所属し、休日は天文台女性職員・能美葉月の許で研究活動をしていました。田上彩夏は何かに導かれるように宇宙物理学研究の道へと進みました。幼少期から祖母の影響でロシア語も使っていました。

2014年のある日、田上彩夏は突然アリビナ・エイゼンシュテイナ名義でAISASの物として「霊体のプラズマ仮説」の論文をロシア語で書きました。書いた時の記憶は無く、憑依型解離性同一性障害とされました。その後も憑依されたように人格が変わることが度々起こりました。その時の様子は、淡々と生命の進化論などを、ロシア語を混ぜて語り始めるといったものでした。そこで彩夏は祖母から、祖母の母アリビナ・エイゼンシュテイナのこととAISASのことを話され、曾祖母アリビナの手記やロシア語・スラヴ語訳聖書、ロシア語祈祷書、AISASの資料などの曾祖母の遺品を託されました。田上彩夏は自身はアリビナ・エイゼンシュテイナの生まれ変わりである、または自身の中にアリビナ・エイゼンシュテイナの魂があるとし、2014年5月11日に田上彩夏はAISASをアリビナ宇宙科学研究所という日本語の名称で再建しました。再建には彩夏がお世話になっていた天文台の女性職員・能美葉月とシズクの構成員であった石川蒼透が関わりました。田上彩夏は当研究所内に総合科学研究室と技術開発室の2つを設置した。田上彩夏は3代目の所長となりました。総合科学研究室の代表は当初は田上彩夏が務めていましたが、能美葉月が務めることとなりました。技術開発室の代表は、能美葉月の娘で彩夏の友人である能美鈴が選ばれました。

架空世界エールフレットの啓示

2015年8月16日に田上彩夏は「原初の夢」を見て、これによって架空世界エールフレット、フーリカ語などが啓示されました。これ以前に当研究所に加入していた田上彩夏の恋人であった若月彩葉は、同年9月13日に同様にエールフレットの夢、「聖剣の夢」を見ました。このことを受けて、田上彩夏は当研究所に架空世界研究室を設置し、その代表に若月彩葉を指名しました。こうして当研究所はエールフレット関係の研究創作も行うこととなりました。これらの夢はAIẞU架空世界啓示霊夢(AIẞU霊夢)と呼ばれるようになりました。技術開発室の名称は、AIẞU霊夢で現れた「変化」や「能力」を意味するフーリカ語「リフェルン」が付けられ、リフェルン技術開発室となりました。リフェルン技術開発室の室長は、この頃には、新たに参入していた初代AIẞUの職員の孫であるドミトリー・ドロフェイエヴィチ・トカチェンコが務めました。

この後は田上彩夏が素粒子物理学や量子力学などを学び始めたこともあり、当研究所は画期がありました。2016年も当研究所は秘かに活動を続けていました。架空世界エールフレットの研究も進み、言語などの文法や単語なども解明されて、一つの物語が描かれる領域にまで達しました。そんな中、2016年5月25日に架空世界研究室の代表である若月彩葉が永眠しました。この日はサヴィーナ田上彩夏の第二誕生日でした。当研究所はこれを大きな損失とし、活動を停止しました。この後架空世界研究室は現在に至るまで代表不在となっていますが、事実上の代表は田上彩夏が務めています。これは田上彩夏が若月彩葉の席をなくさないために行っていることです。

八元の圧縮言語リセリスと発展

2018年には田上彩夏はアリビナ・エイゼンシュテイナが求めた共感覚性を用いた兵器を、メオロ仮説から考え出した「圧縮言語」を職員に提唱しました。その圧縮言語は子音と母音と音程を含む八つの要素から構成される八元の圧縮言語とされ、名をエールフレットの神から取り「リセリス」(RISELIS)としました。この時期に田上彩夏と高校同期である小峰陽菜美や梅田利香などが当研究所に加わりました。小峰陽菜美の参入に伴って序列が交代し、能美葉月はNP-002からNL-001となり、小峰陽菜美がNP-003(総合科学研究室代表)となりました。

2020年には田上彩夏の後輩である伊吹睡華が加わりました。伊吹睡華は神道・陰陽道の家系の霊能者であり、リフェルン技術開発室の研究の発展に貢献することが期待されました。その後に田上彩夏と同じ教会に通う日本正教会の信徒である黒江ガヴラス翠零が加わりました。黒江氏の参入によってエールフレットの暦などの研究が大幅に進みました。2022年2月にドイツ連邦共和国支部から下位組織、Cathedral of Scientific Daydreamers (CSD)(科学夢想者大聖堂)が作られ、能力開発や魔術研究などの神秘科学分野の過半数の活動をCSDに移しました。

現在

当研究所は再建後、秘かに仲間内だけで活動する団体でしたが、2022年に所長・田上彩夏がTanukipediaに参入し、エールフレット関係の記事を執筆し始めたことによって、当研究所の存在が公にされました。また同年の11月24日に設立から60年が経ったとして、再建後の当研究所には存在していなかったロゴと紋章が所長によってデザインされました。そして、2024年5月11日には、再建10周年の節目を迎え、この公式ホームページの運用が始まりました。9月13日には当研究所の公式ウィキサイト、WhiteBlueLexiconを開設し、更に10月1日にはエールフレットの地図の描画を開始しました。2025年1月9日には当研究所が制作しているErflettMod等の解説公式ウィキサイトであるプラウダ翠スクールを開設しました。そして2025年7月21日に英訳名称をAl’bina Institute of Space and Astronautical Scienceから「Al’bina Institute for Space and Universal Studies」に変更し、略称をAISASから「AISU」(アナログではAIẞU)に改称しました。これに合わせてロゴも改定されました。

沿革

1962年11月24日

研究所の創立

アリビナ・エイゼンシュテイナにより、初期AIẞU・ベルコスモスの設置。アリビナ・エイゼンシュテイナが所長に就任

1965年11月25日

コスモス96号の打ち上げ

バイコヌール基地からコスモス96を打ち上げるが、失敗

1969年7月4日

神秘科学研究室の設置

メオロ仮説の持ち込みと共に、神秘科学研究室を新設

1978年5月23日

コスモス1010号の打ち上げ

バイコヌール基地からコスモス1010を打ち上げるが、失敗

1981年1月7日

2代目所長就任

アルテミー・パステルナークが所長に就任

1981年1月16日

研究室の統合

宇宙物理学研究室と航空宇宙工学研究室が統合され、宇宙科学研究室が新設

1981年1月20日

研究所名改称

研究所名称が英語名称に変更、通称がベルコスモスからAISASへ変更

1991年1月28日

創立者アリビナ・エイゼンシュテイナの永眠

研究所の創立者であるアリビナ・エイゼンシュテイナが永眠。この日は「アリビナ記憶日」と呼ばれる

1991年12月14日

解散

アリビナの永眠とソ連の崩壊に伴って、研究所が解散

2014年5月11日

研究所の再建

アリビナ・エイゼンシュテイナの曾孫である田上彩夏を中心に研究所が再建。新所長に田上彩夏が就任。過去の全研究室が廃止され、新たに総合科学研究室と技術開発室を設置

2015年8月16日

エールフレットの啓示

研究所の一部の職員に「エールフレット」と呼ばれる架空の世界の存在が啓示された。以降この世界の研究が新たな分野として加えられた

2015年9月14日

架空世界研究室の設置

エールフレットの啓示を受けて、新たに架空世界研究室を設置

2018年6月26日

RISELISプロジェクトの始動

メオロ仮説から考えられた八元の圧縮言語「リセリス」を開発するプロジェクトが始動

2021年10月24日

ErflettModプロジェクトの始動

ゲーム「Minecraft」で遊べる、架空世界エールフレットを舞台としたMOD「ErflettMod」を製作するプロジェクトが始動

2022年2月2日

下位組織CSDの設置と移管

ドイツ連邦共和国支部から、下位組織Cathedral of Scientific Daydreamers (CSD) が設置され、神秘科学の大部分の研究を移管

2022年11月24日

設立60周年、新ロゴと章の制定

設立から60周年を迎え、その記念に新たなロゴと紋章を制定

2024年5月11日

再建10周年、公式サイトの運用開始

再建から10周年を迎え、その記念に公式ホームページの運用を開始。

2024年9月13日

ホワイトブルーレキシコンの開設

当研究所の公式Wikiサイト「WhiteBlueLexicon」を開設。

2025年1月9日

プラウダ翠スクールの開設

当研究所開発のMinecraftMODの公式解説Wikiサイト「プラウダ翠スクール」を開設。

2025年7月21日

英訳名称及び略称の改定

英訳名称をAl’bina Institute of Space and Astronautical Science (AISAS)から「Al’bina Institute for Space and Universal Studies」に変更し、略称をAISASから「AISU」(アナログではAIẞU)に変更。これに合わせてロゴも改定。